横浜(2012年)、越後妻有(2012年)、マレーシア(2014年)にて上演された作品「see/saw」を、金沢で公募したダンサーたちを迎え上演します。ダンス・映像・音楽・美術がひとつになった圧倒的な表現の世界を、幅広いジャンルのアートの発信地となっている金沢市民芸術村アート工房でお楽しみ下さい。
※ニブロールメンバーとともに作品を作り公演に出演するダンサーを募集します!!
募集については、お知らせ のページをご覧ください。
日時:①平成26年8月30日(土)18:00開演 (17:30開場)
②平成26年8月31日(日)14:00開演(13:30開場)
★各公演の終演後に、アフタートークを行います。
会場:金沢市民芸術村 アート工房 PIT5 (金沢市大和町1-1)
料金:全席自由
一 般 2,500円(当日3,000円)
高校生以下 1,000円(当日1,500円)
※未就学児入場不可
チケット取扱 :
金沢市民芸術村
香林坊大和チケットボックス
石川県立音楽堂チケットボックス
ローソンチケット(Lコード 55907) TEL 0570-000-777
チケットぴあ(Pコード 438-468) TEL 0570-02-9999
主催:(公財)金沢芸術創造財団
共催:金沢市民芸術村 アクションプラン実行委員会
後援:北國新聞社、北陸放送、石川テレビ、エフエム石川
助成:芸術文化振興基金
お問合せ先:
(公財)金沢芸術創造財団 事業課
TEL 076-223-9898(平日9:00-17:00)
FAX 076-261-5233
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やがてシーソーが傾いて、
一方に乗った君が跳ね上がったときに見た風景を、
もう一方で沈む君が想像するところからはじめます。
「見た?」と聞くと「見た」と君は答える。
人は人が死ぬと世界中、宗教に関係なく、花を供えるようです。
「なぜ人は死者にお花を供えるのか」
そんな素朴な疑問からこの作品は始まっています。
人が一輪の花を人に捧げる瞬間、今までのその人と、これからと、たった今との、それぞれの距離を感じながら、同時に自分の死をかすかに予感しながら、そしてそのことと距離をおいて生きながら、どうすれば自分の生とか死とかを客観的に見つめなおすことができるのか考えたいと思います。
これは記憶についての作品ですが、いろいろな人のそれぞれの記憶の断片を集めて、作品自体を記憶化するイメージです。
見る、と、見た、その間にある風景について。
振付:矢内原美邦
映像:高橋啓祐
音楽:スカンク
美術:カミイケタクヤ
衣装:スズキタカユキ
出演:小山衣美、絹川明奈
クリタマキ、山下彩子
制作:奥野将徳
・ニブロール プロフィール
1997年結成。振付家・矢内原美邦を中心に、 映像作家、音楽家、美術作家とともに、舞台作品を発表するダンス・カンパニー。舞台のみならず、美術館でのパフォーマンス、ビジュアル作品の発表などダンスや身体表現の可能性を追求している。東京を主な活動拠点としながら、欧米やアジアなどでも作品を発表し、注目を集めている。
・「see/saw」レビュー
「炸裂する怒り、哀しみ、空虚感」 石井達朗 ダンス批評家
鬱積した感情を若者たちの「身体の風景」に還元するようなニブロールには、いつも注目してきた。既存のダンス語法に頼らないばかりか、映像とサウンドとダンスがそれぞれ独立した魅力を放ちながら展開する方法論はポップでありながら、切実である。矢内原美邦は『前向き!タイモン』で岸田戯曲賞を受賞するなど、このところ劇作でも特異な才能を発揮していたが、彼女がダンスから少しでも離れていると、日本のコンテンポラリーダンスに大きな隙間ができてしまうように感じるのは私だけだろうか。
「see/saw」はそんな空白を埋めてあまりある、本格的なダンス作品。今という時代と社会に向けて、怒りと哀しみと空虚感が炸裂する。その根底に三・一一があるのは明らかだが、作品は具体性を排し、イメージの強度に訴える。生と死、記憶と現実、今見てること(see)と過去に見たこと(saw)。まさに「シーソー」のように揺れ動くコインの両面ーそんな二つの世界を分割するように白と黒を対比させたカミイケタクヤの美術が秀逸だ。舞台中央に置かれ、包帯をぐるぐる巻きにされたシーソーは、本作を象徴すると同時に、すべての傍観者でもあるのだろう。
冒頭、舞台奥で静かに動く小山衣美の中世的な存在感が魅力的だ。すぐに三名の少女が加わり、白地に朱の入った衣裳で楽しげに戯れる。しかしそのすべてがやがて訪れるカタストロフの前兆である。暗転になり風船がバチバチと破裂するあたりから、舞台は白から黒へ。すさまじい勢いで動く集団の衣裳は黒尽くめ。背景に映し出される住宅地や海は、かつてそこにあった光景なのか。中盤、全員の絶叫シーンがえんえんとつづく。叫びつづける以外の表現をすっかり閉ざされてしまったかのように。
ニブロールを中核で支えてきた高橋啓祐の映像は、実写・アニメ・抽象を巧みに使い分け、作品に鮮やかな色づけをする。また、スカンクのサウンドは、観る者の心をえぐるように作品を引っ張ってゆく。矢内原、高橋、スカンク、カミイケが共にひとつの方向性を共有しながら、それぞれの領域で創造力を全開しているのが快い。
家族の者、周りの者が亡くなり、見慣れた光景が崩壊し、すべてが眼の前から瓦礫のように崩れ落ちてゆくとき、人は何ができるのだろうか。そして舞踊家はどこを見つめ、何を表現するのか。一部の舞台人が取り上げているテーマではあるが、ニブロール結成以来十五年の蓄積を、安易な同情や感傷をしりぞけながら矢内原が渾身の力で投げかけた。欧米やアジアの他の国々とは違う独自の展開をしてきた日本のコンテンポラリーダンス。そこからだからこそ生まれたと思わせる傑出した作品である。